戦国時代、相模の国を治めていたのは北条早雲を始祖とする後北条氏(ごほうじょうし)です。かつて早雲は一介の素浪人から一代で一国の主となった戦国の梟雄(きょうゆう)、下克上の元祖として語られていました。

 けれども近年の研究で、北条早雲、本名伊勢新九郎盛時(いせしんくろうもりとき)は名門伊勢氏の出身で、備中国(びっちゅうのくに)高越城(たかこしじょう)(岡山県井原市(いばらし))で生まれ、後に京都で足利九代将軍義尚(よしひさ)の申次衆(もうしつぎしゅう)、奉公衆(ほうこうしゅう)を務めたことが分かってきました。素浪人どころか、幕府の高級官僚だったのです。

 さてその早雲には姉妹がありました。彼女は遠江(とおとうみ)の守護今川義忠(よしただ)に嫁ぎ、嫡男をもうけ北川殿(きたがわどの)と呼ばれました。しかし数年後、義忠が戦死すると従兄弟の小鹿範満(おしかのりみつ)との間に家督争いがおこり、文明8年(1476年)幼子を抱えた北川殿のため早雲は調停に乗り出します。ここに早雲と東国の縁が始まりました。

 調停は成功しますが後に争いが再燃し、早雲は元服した今川家嫡男氏親(うじちか)とともに小鹿範満を倒し、その功で興国寺城(こうこくじじょう)(静岡県沼津市)を得ます。さらに明応2年(1493年)伊豆討ち入りを敢行し5年間かけて伊豆全体を手中に収めました。

 伊豆討ち入りでは、足利将軍家に連なる堀越公方(ほりごえくぼう)茶々丸(ちゃちゃまる)を襲ったことから、この事件をもって下克上の嚆矢(こうし)、戦国時代の始まりとも言われてきました。けれど近年の研究で、伊豆討ち入りは京都の日野富子(ひのとみこ)、細川政元(まさもと)らの新将軍擁立の動きと連動していたことが分かってきました。新将軍足利義澄(よしずみ)は茶々丸に母と弟を殺されていたので、早雲にかたき討ちを命じた、と考えられるのです。

 さて、伊豆を平定した早雲は続いて大森藤頼(おおもりふじより)と戦って小田原城を奪取、相模国を平定します。また、今川氏の武将としても度々出陣し、今川氏親と連携して領土を広げていきました。

 戦国武将の先駆けとして広大な領土を制圧した早雲はまた、領国経営においても大変先進的な取り組みをしています。まず、当時五公五民(収穫の五割を納める)が当たり前だった年貢を四公六民に引き下げる一方、検地を初めて行い公平な税負担を確立しました。また、後の織田信長で有名な楽市楽座も早雲が始めた商業振興策です。『早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)』という家法を定めましたが、これは各地の分国法の原型になりました。

 これらの時代の最先端を行く政策の数々は、中央の高級官僚として経験を積んできた早雲ならではのものでした。民を大切にする彼の政治を他国の農民が羨んで、「自分のところも早く早雲殿の国になればいいのに」と言い合ったそうです。

 室町幕府が力を失うと、各地の道路の維持は割拠する戦国武将たちに委ねられます。領国の繁栄が自分の勢力拡大に繋がると気づいた一部の有力大名は橋を架けて道を修理し交通網の整備に努めましたが、弱小大名は荒れた道路や朽ちた橋をむしろ外敵への防備になると考え放置していました。一般の旅人にとって戦国時代ほど交通が不便で危険だった時代はないかも知れません。

 そんな時代にあって、北条氏の本城として栄えた小田原城下には楽市楽座のおかげで沢山の人や物が流れ込み、産業や文化が大いに発展しました。早雲の跡を継いだ二代北条氏綱(うじつな)は父の遺した領国をさらに拡大する一方、交通の整備に着手します。すでに主要な道路には市や宿が出来、宿場から宿場へと馬で人や荷物を運ぶ伝馬(てんま)の仕組みが整いつつありましたが、北条氏綱はこれを伝馬制度として確立しました。幹線道路に面する町村を伝馬宿として編成し、伝馬役を義務付ける一方、氏綱の印である虎の朱印状の手形を持たないものは勝手に伝馬を仕立ててはならないとします。手形は後に虎朱印状から馬の姿を刻した伝馬専用手形になりましたが、何事も書き付けで済まされることが多かった時代に印を用いた公文書で偽造を防いだこともまた、北条氏の先見性のあらわれでしょう。

 戦国大名の先駆者として歴史を駆け抜けていった早雲と二代氏綱。北条氏の政策は時代のはるか先を行く先進的且つ画期的なものでした。楽市楽座を取り入れた織田信長や、天下人として検地を実施した豊臣秀吉は、早雲の曾孫の北条氏政(うじまさ)と同世代なのです。

 北条氏が覇を唱えた関東の地には小田原城や多くの神社仏閣、また彼らが保護して育てた小田原漆器など有形無形の遺産が、今も数多く残っています。北条氏の伝馬制度もまた、江戸幕府に受け継がれ、宿場制度として発展していったのでした。

小田原駅前にある北条早雲像

現在の小田原城

参考文献:「道 Ⅰ、Ⅱ」武部健一 法政大学出版局2003年

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