古事記に登場する日本古代の英雄、倭建命(やまとたけるのみこと)は、第12代景行(けいこう)天皇の皇子です。皇子はまだ10代の若さで大和の国巻向(まきむく)(奈良県桜井市)から単身出陣し、西は出雲、南は九州の熊襲(くまそ)を討って凱旋しました。ところが命(みこと)のあまりの強さに恐れをなした天皇は、今度は「東のかた十二道」の平定を命じて都から追い出してしまいます。悲嘆にくれた命は伊勢神宮に仕える叔母倭媛命(やまとひめのみこと)を訪ね、太刀と御袋(みふくろ)を賜り、東征の途につきました。

 今の静岡では、国造(くにのみやつこ)の計略で野原の真ん中で焼き殺されそうになります。命は倭媛にもらった太刀で周囲の草を払い、御袋の中の火打ち石で逆に火をつけて国造一味を倒します。そのことからついた地名が焼津、太刀は草薙(くさなぎ)の剣(つるぎ)とよばれるようになります。

 また、三浦半島では対岸の房総半島に船で渡ろうとしますが、その時に「これくらいの海峡なら走ってでも渡れる」と豪語して海峡の神を怒らせてしまいます。神の怒りを鎮めるため、命の妃、弟橘媛(おとたちばなひめ)は海に身を投げます。そのときに媛が詠んだ歌『さねさし相模の小野に燃ゆる火の 火中に立ちて問いし君はも』は、《焼津の炎の中であなたは私を気遣ってくれました》という意味です。命が渡ろうとした三浦半島の地名が走水(はしりみず)、身を投げた弟橘媛の袖が流れ着いた浜が袖ヶ浦です。

静岡の日本平にある日本武尊像
写真提供:日本の銅像探偵団

その後関東一円を転戦してある峠に差し掛かったとき、命は関東平野を見渡し、『吾妻はや』《我が妻よ》と弟橘媛をしのんで嘆息しました。それ以来、関東地方は吾妻(あずま)と呼ばれるようになったといいます。

 このように関東地方にゆかりの深い倭建命ですが、彼が旅した道はどんなルートだったのでしょう。

 上代(じょうだい)にはもちろん江戸時代のようなしっかりした街道があったわけではありません。さらにいくつか現在のルートと大きく道筋が異なるところもあります。例えば駿河(静岡県)から相模(神奈川県)に向かうときは箱根ではなく足柄を通っていました。箱根路が開かれたのは、その後富士山が大噴火して溶岩流が押し寄せ、足柄路が通行できなくなったときです。

 また、当時武蔵の国の湾岸地帯(現在の東京)は低湿地で道らしい道もありませんでした。江戸、というのはぬかるんだ土地、という意味の地名です。

 倭健命も三浦半島から海路浦賀水道を横断し、上総(かずさ)の国に入ったことが走水の伝説から分かります。そしてこの古東海道は常陸(ひたち)の国まで伸びていました。命が『新治(にひばり)筑波を過ぎて幾夜か寝つる』《新治や筑波の地を過ぎて、幾夜寝たのだろうか》と詠い、傍の翁が『かがなべて夜には九夜、日には十日を』《日数を重ねて夜は九夜、昼は十日でした》と歌を継いだという逸話が古事記にあるので、筑波まで遠征したことがうかがわれます。この歌が詠まれたのは甲斐の国(現在の山梨県甲府市酒折(さかおり))ですから筑波まで行ってから西に折れ、甲斐から信濃を通って尾張に戻ったと推測されます。

 その後、命は熱田神宮の美夜受媛(みやずひめ)のもとに草薙の剣を置いたまま伊吹山の神と戦って敗れ、三重県の能褒野(のぼの)で亡くなりました。命の辞世の歌が、有名な『大和は国のまほろば たたなづく青垣 山ごもれる大和し麗し』《大和は国の中で本当にすばらしい所よ、たくさんつらなる青い垣根のような山々に囲まれた麗しの大和よ》です。

 倭建命の物語は創成期の日本で、国土統一、領土拡大のために戦った青年皇族の英雄譚です。一生を旅に送った孤独な英雄の物語に、当時の日本の国の姿が偲ばれます。彼が辿った道の多くは後に街道として整備され、現代に引き継がれています。

参考文献:「道 Ⅰ、Ⅱ」武部健一 法政大学出版局2003年

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